ただの大学生がいろいろ模索するブログ

調べて、考えて、模索します。

木を見て森を見ず

 

お久しぶりです、かすみです。

 

ここ一か月ちょっとは、被災したり、ボランティアしたり、家族が結婚したり、久々の授業についていけずに泣いたりと、かなり非日常的な出来事が多かったです。地震についていろいろ思うところはありますが、今回は地震についてはノータッチで書こうと思います。

 

 

 

最近、ある資格試験の勉強を始めました。というのも、大学の先輩やOBの方とお話しする機会が中で、就活や働くことについていろいろと考える時期なのかな……と思い始めまして。自分にできることってなんだろう……とか、今すべきことって……とか、おそらく多くの大学生が悩んでいることを、私も悩んでいる次第です。

そこで、興味のあることについて学校の授業外でも勉強してみようと思い、資格試験の勉強を始めたわけです。就活に生かせるかと問われると自信をもって頷くことはできないのですが、興味があるという理由だけで勉強ができるのって今しかないのではないかな、と思うので。

 

学校の勉強とは別に勉強をするというのは、実は初めての経験です。今までは学校の課題に追われ、自発的な調べものをして、といった勉強の仕方をしていました。初めてだから戸惑うことも多く、完全に独学なので不安な部分もあります。でも、せっかく自分でやってみようと思って始めたこと。とにかく頑張ってみようと思います。

 

 

勉強する中で、どうしても理解できない箇所に出会うことがあります。これは、資格の勉強だけではなく、学校の勉強でも同じです。なんで? どういうこと? これって何が言いたいの? などなど。講義、配布されたレジュメ、参考書、書籍、資料、誰かの話していること……いつもそういった疑問が付きまとってくるのです。

 

「わからない」というのは、私にとってかなり苦しいことで、私の頭が悪いのかなと自分を必要以上に責めてしもうこともありました。逃げて勉強をやめてしもうこともしばしば……。「わからない」って、きつい。

 

 

そうやって苦しむ中で、なんとなく気づいたことは、「全体をきちんと見ることが出来ないと何もわからない」ということです。

 

たくさんの「わからない」と遭遇する中で、何が分からないのか、より、どういう時に分からなくなるのか、を考えるようにしてみました。「何が分からないのか」は、勉強する内容によって、また聞く内容によって様々ですが、「どういう時に分からないのか」は、共通項があるように思います。

 

それが、先ほど太字で主張したように、「全体を見ることが出来ているか」という話に通じます。

私がわからなくなる時は、その内容の難易度の問題と、私自身の問題のふたつあるなと感じました。そして同時に、後者の方が圧倒的に多いとも感じるのです。

私が分からなくなる時はたいてい、ある一文に固執してしまうとか、必死に参考書のあるページだけに執着してしまうとか、視野が狭くなっていることが多いです。だから、勉強している単元、分野の全体像、そういったところまで立ち返らないと「わからない」ままになってしまいます。逆に言えば、「どうしようわかんないよ~」とパニックになる前に、冷静になって、前のページに戻ったり、単元自体の概念を改めて確認したりすることで、するっと解決することも多いな、と。

 

全体像を見ることは、勉強だけに限らないと思います。サークルの運営とか、人間関係とか、そういうことも一部だけを見ていると、変に悩んでしまうことが増えていきます。私の場合ですが。

あとは、人がやっていることを一部だけ見て取り入れることも、無意味になりかねないなって。たとえば、モデルさんが毎日豆乳飲んでるということを知って、豆乳だけ飲んでもモデルさんみたいにはなれない、みたいな。モデルさんは、食事にも気を遣い、運動もして、お風呂にはボディクリームを塗ってマッサージし、服にはアイロンをかけ……などなど、たくさん努力しているから綺麗なのだと思います。お金を出して飲みさえすればよい 豆乳 の部分だけを真似しても、日頃不摂生だったり運動不足だったりすれば、モデル体型にはなれないんですよね。分かってても豆乳を飲んでしまうのは女の性ですが……。

 

 

何事にも、「木を見て森を見ず」は禁物、というお話でした。

 

もっと文章をうまく書きたいな、と思いつつ、言いたいことの30%も書けなかったかすみより。